昭和46年12月08日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
是は、お取り次ぎをさせて頂く者に対する、まぁ直接の御理解だと思うんですけれども、本当のいわば取り次ぎ者と、本当の取り次ぎ者たりという、是だとこう思うんですね。ですから、結局どう云う事かというと、本当の信者になれと云う事ですね。是はもう教師も信者もないです。94節の最後の所に、「信心の篤いのが真の信者じゃ」とこう仰る。ですから教師も信者もない。結局その「信心の篤いのが真の信者じゃ」と仰る、真の信者を目指せ、又なれと云う事だとこう思うです。
真の信者、ね、真の信心を頂いて行ったら、神様を売る様な事もないだろうし、ね、神様を商売道具に使う様な事もない。愈々信心を手厚うして行くという、是はもう教師信者を問わない事だと思うです。そこでその「信心の篤いのが真の信者」と仰る。信心の篤いのが真の先生だと云う事も言えるわけでしょうが。信心の篤いと云う事は、どう云う事だろうか。熱心にお参りをするとか、御用が出来るとか、人の真似の出来ん様な修行が出来るとかというのが、私は信心が手厚いというのではないと思う。
勿論信心の手厚い信心の一つの条件ではあっても、それが信心が篤いのではない、手厚いのではない。何処までも信心が手厚いというのは所謂信心。神様を信じて疑わない心が強うなって行く。真心愈々真心が出来て来る、何事にも真心を持ってとこう。真心そういう風に所謂御道の信心の、まぁなんていうですかね、願いの最高峰とでも申しましょうかね。私共が其処を願っていかなければならないという、所謂神心神心であります。その神心を目指す、所謂信ずる心とか真心と。
いわゆる親切といった様なその心。ね、その神心そう云う様な心が愈々篤くなる、愈々強うなって来ると云う事だと思うんです。信心が篤いのは「信心の篤いのが真の信者」じゃと仰る。真心の強い人。本当に神心の人。同時に、神様を信じて疑わない心がいよいよ出来て来る信心。ね、ですからその、一つ一つがです、自分に身に付いて行く、段々それが信心の稽古によって、本当なものになって行くと云う事になればです、神を私は売って食う様な事は無くなると思う、ね。
まぁ例えていやこれなら信者側の方から申しますと、昨日久留米の大橋さん達が夫婦であぁして参ります。熱心に参っておみえられます。一身上の事があれば、商売の売り買いの事から、何もかにも、今日はどの方面に、商売にでらせて頂くと言った様な事までお願いして、手厚つに様な信心が出来ておられます。けれどもそれがただその、商売繁盛を願うと云う事だけなら、私は手厚い信心じゃないと思うですね。いわゆる御利益を願うというだけの信心なら、手厚い信心じゃない。
そういう例えば一身上の事、又は商売のこと。その事を通して信ずる心が愈々強うなる、信ずる心を真心が愈々真心とはと、真心の追求に又は神心と言った様な心が、自ずと出来て来る。その事を通してそれが出来て行くと云う事が、手厚い信心じゃと思うですね。今日は商売繁盛のおかげを頂かんならんから、例えば毎日お参りもしよる、こげな修行もしよるというのでは、だから手厚いと云う事にはならん。真の信者じゃと云う事にはならない。その事を通して、いよいよ神様を信ずる心が強うなって来る。ね。
昨日もまぁ卸元の方から、その頼みもしないのに、もう次から次とその、品物を送って来るとこういうのです。だから此のまま受けて良いでしょうか、返品したが良いでしょうかというお伺いであった。そう致しましたら、神様が、と其の事をお伺いさせてもらったら、この「袖」という字を頂いた。袖、ちょっと書いてみます。ネ偏ね、にこう由という、カタカタのネに、由という字が書いてあります。何何の由という、こうね、袖と読むでしょう是は、確か。袖という字ですね。
ですから、それはね、その様に来たって仕方が無いないから、それは送り返しても良しという事。そりゃ例えばどげん関係だけの事であるならば、そりゃ御理解したが良いという事。けれども、此処にね、信心を持ってする。いわゆる信ずる心を持ってするならばです、ね、相手の卸元屋さんがどんどん送り付けて来御座るとじゃない。神様が送り付けて下さってあるんだと思うたら、それを有り難く受けて行くと云う事になるのだと。そりゃどっちでも良いですよと。
したら神様、その由という字の下に、ちょっとこうやって棒を引いて下さった。どう云う事になりますか。このね、ネを書いて、由という字を書いて。それを送り返してもよい、けれども信心になるならば、此処で、ちょっとこう心を使うたら神という字になりましょうが。こう由という字をこう貫いてご覧なんさい、神という字になるでしょう。だから、あの信心の方を求めるならば、黙って受けとけと云う事なんです。
私は此の事は、本当に大事な事だと思うんですよね、いわゆる真の信心を目指す者、いよいよ信ずる力を試して行くこと。ね、それこそ信心、商売をするなら、売り場買い場と言うて、売り場を大事にせにゃならんだけじゃない、買い場も大事にしなければならない。卸元の所も願わなきゃならない。そう云う事が真心で願われ、送りつけて来たと。是はもう神様の世界ではね、それだけ、豊富な品物が必要なのですよ。
私は此の事は、同じ意味だと思うんですけれども、昨日総代会で、まぁ遅くまで、まぁ共励させて頂いて、とりわけ、今度の御造営の事に付いて色々と、まぁお話させて頂いたんですけれども、今朝方から、昨日の総代会で、私がお話をした事をじっとこう、反省して、反省と、こう思うて見てから、あのう、お願いをさせて頂いておりましたらね、本当にこの神ながらと云う事の、こう云う事かと思ったのはですね、もうそれは素晴らしい御神殿、御神殿のね、そのいわゆる影なんです、影。
こう家なら、家があると家に影が付くでしょうこう。それがその御神殿風にこうしたその、いわゆる影がね、であの、を頂くんですよ。私はそれを頂いてから思いました。ははー、神様がもう思い立ちなさった時には、もうすでに神様の世界では出来てるんだと云う事ですよ。だから、こちらに一人、神様の方ではもう必要だから造りなさった。その影がね、此の様ないわば一つの御造営。
御造営と皆が言われ、又だから是がいかに教会長である私が、いっちょんどうでんこうでん建てじゃこてっち言って思い立って、建てた家などが、ほんな事に成就しない事が分かりますね。神様が思い立ち、神様が思い立ちなさったと思わなければおられない、合楽の場合は何時の場合でも。ね、そういう働きがこう出来てくる訳ですね。ですからね、もう本当に此処の信者の中心になる人達が、どうでも五年祭を前にしてから、御造営がを、是も必要に迫られてですね、いうならば。
初めは丸少の会館というのが、まぁ西脇殿と称する様になり、ね、その西脇殿建立と云う事がです、思い立たれたと云う事は、もうすでに神様の、いわゆる神の世界ではもう出来とると云う事です、ね、その影を私に見せて下さった。こんなに出来てるんだとぞ。だから私も今日こそ、影に頂いた、その影を見てまだまだ此処計した様なこっちゃない様な立派な物なんですよね、いうなら。問題はこちらが、それを受け、どの程度まで受けきるかと云う事なんです。
昨日の御理解の中に、ちょっと私の御夢の事が出ておりましたが、もう此の様に立派に出来ておる様であっても、あの柱でなんでん、こっまか柱がたっとると言う言った様な感じで、昨日頂いたと云う様な、私はそれだけ「がた」しか頂けていないのです、実を言うたら。ありゃもう本当にね、神様が下さろうとするものを頂くと云う事は、大変な事だと私は思いました。大変な素晴らしい事だと思いました。神様下さい下さいというて、頂くのは対した事は無いです。
けどももう神様が創って下さる。いわば神様の世界と人間の世界とがもう裏表なんですね。実をいうたら。ですからもう、神様の世界では、合楽教会がもう是だけ充実した立派な、いわば神前でも、それに付属する建物でも出来ている。神様の世界では。ね、それが、なら此処で、あの、皆さんが、御造営を思い立たれる事になったと。此処ではまぁ私が中心ですから、私が思い立ったというのと、神様が思い立ちなさったというのはもう大変な違いだと云う事が分りましょう。
だからそれから、お恵みなら大場さんの場合でもです、自分が注文して送って来たのじゃない。向こうから送り付けて来るというのはですね、もう神様の世界では大場商店というなら、大場商店にはもう、それだけの品物が豊富に出ておる訳なんです。だからこちらの頂き方一つ。いわゆる信ずる心というか、真心というか、いよいよ神心を強うして、是を受けてさえ行きゃ、ね、良いと。
私はその、そげやって教えを頂いた時に、ね、まぁどんなに人間的に考えよるならば、こげん要らんものば送って来てからどんこん出来んから送り返そうと。それは送り返しても良しと言う事は、あん、ね、袖にすると言う事を申しますね。ね。「洋服姿にズボンと惚れて、そげな浴衣で暮らしたい」ちいう文句がありますよね。もう振られないちう、袖がないから。そういう意味であの、袖にすると言う事は、向こうに送り返すとか、ふるとかという意味なんですよ。
だから是は袖にしても良いと私は言った訳です。けれども袖にしても良いけれども、なら是をもう一歩突っ込んで信心で行くならばです、ね、それはもっと素晴らしい事なんですよと。ちょっとこう心をもうちょっと使うたら由という字の下に、ちょっとこうしたら神という字になる。いわゆる信心になると言う事はそう言う事なんだ。この前の前のお月次祭の時でしたですかの日でしたか。だから23日の月次祭だったでしょうかね、先月の。上野先生が金光大神をまぁ繰り返し読んでおる訳です。
その金光大神の中に今日の御理解の様な所が、95節の「神を商法にしてはならない」という下りがある。ね。其処ん所にこう云う事が出ております「側を去るな守が大事」とあると「側を去るな守が大事」学院在役中にも、誰彼に此処ん所分からんから聞かせてもらったけども、先生からの答えが出なかった。それから向こう金光大神読ませて頂く度に此処が何時も分らん所でありますが。是は大体どういう意味でしょうかとこういう。もう此処ん所をまぁ別な言葉で言うと。
ここ大盛りそばの事じゃろうかとも思うた。食べる蕎麦の事。成程そばとかもりとかち書いちゃりますからね。ならそれとこれとを合わせると、大盛り蕎麦ちゅうごたる風になります訳ですけれども。其処にしかしまぁいくら商売神を商法にというけども、どうも合点が行かん訳ですね。それで此処でまぁお伺いにななった訳なんです。それはね側を去るなと云う事は、神様の側を去るなと云うう事なんです。同時に守が大事と言う事は、いよいよ神様の、ね、奉仕に捧げよと云う事なんだ。
神様のお守をするんだと。是がどうだろうか、信者のお守をしておるというか、側を離れておる、神様の側を離れておってもうしち割れちから、御結界に座る様な事になっちゃ出来ん。お賽銭がちゃらんちゃらんというたら、裏から出て来るちゅうごたる事じゃでけん。御結界と云う所は、ね、常時此処ん所に奉仕させて頂いて、しかも何時も神様のお心を耐えさせて頂いて、神様が何時どの様な用事をおうせつけなさるか分らん。
神様があれを取ってくれてはい。あれを持って来てくれてはいと言えれる体制を此処では作っておけと。そうする為にはずはなれ離れるなと。守が大事とは神様のお守が大事だぞと。ね、神様を商売に使うてはならんと言う所にこういう言葉が出来、出て来ておると云う事はだからそう云う事なんだ。ね、だから側を離れるなと。なら御結界に何時も、座っておる御結界の奉仕をしておると云う事だけが、ね、守じゃない。
それがもし、神様の守じゃなくて、此処で小説どん読んどったり、誰が参って来るか分らんけん座わっとるというならば、丁度お店番しとる様なもんでしょう。此処では兎に角自分の心を神様に向けきらせて頂いて、神様の御用に、お粗末怠りない体制、姿勢を作っておくと云う事が大事なのである。其処で例えば、是はまぁ取り次ぎ者と云う事になりますとです、なら御結界に座っとるだけが脳ではないと云う事。ね、守が大事、守を大事に出来る取次ぎ者にならなければならない。
だから是をなら、信者の方側から言ったらどうです、ただねお参りをする、御用をするだけが脳ではない。それが手厚い信者じゃない。いわゆる守が大事でなからなければならない。いよいよ其の事その問題を通させて頂いて、信じる心がいよいよ強うなりその問題を通して、真心と言う物が分らせて頂く様になり、ね、本当に神心とはこういう心であろうかと、自分の心の中に、神心が強くなって行くと云う事がいわば手厚い信心、手厚い信者と云う事になり。
手厚い奉仕者。手厚い信心の出来られる先生というならば、御結界を大事にするだけじゃなくて、いよいよ守を大事に出来る先生であり、なからなければならないと云う事になります、ね。私共其処ん所にです、本当に、焦点を、いや反省させて頂きますと。ね、厳密にいうと、本当に神様を商売に使うておる様な考え方の、様な事も沢山ありましょう。そこを改め改めして行くと云う事。ね。先日お道の新聞を読ませて頂きよったら、あの画家の、もう亡くなられましたですね「山下清」さんという人。
なかなかいわゆるまぁ「天儀無方」な生き方をして、まぁこの世を去った人なんですね。その人の言葉の中に、こう云う事があると云う事を書いちゃった。「死んだ事のない人が、死んだ事を分るかな」と。素晴らしい事だと思いますね。はぁそれこそ見てきたよと。ね、それこそ地獄極楽を見て来たごと言うて、まぁ言う人があるけれども、其処ん所には、まぁ「脾肉」ですがね。死んだ事のない人が死んだ事を死んだ、「死んだ事のない人が、死んだ事を分かるかな」と。
だから私はどんなに素晴らしいお話を、あの聞かせて下さる、人に合ったりしましてもですね、自分がおかげを頂かず、ね、ただ教えのね、いうならば、受け売りの話ではこんな事だと思うですね。あんたえらいお話をなさるが、あんたはどうですかち言われたらそれまでの話。ね、私は本当に合楽の値打ちはね、死んだ事のある人が、死んだ事をいうておるから素晴らしいんだと私は思うんです。ね。
ですから本当に私が云う事を、みな、皆さんが本当に聞いて下さって、本当におかげを頂いて下さらなければです、本当の事を聞かせて頂いておる値打ちがないと。まぁ私は昨日総代会の方達に、まぁ話した事で御座います。此処で私は受け売りじゃない。どう説いて、そういうのじゃない。ね、まぁ死んだ事という事はです、いよいよならある意味においてはです、自分自身と言う物を空しゅうして、ね、そして、神様の守をさせて頂いて、そして、神様から受けた事。
神様が頂いた事を、皆さんに伝えさせて頂いておるのである。まぁこれも厳密に言うとですたい、何処迄し、ね、死んだり生きたりな、所で御座いましょうけれどもです、ね、神様から頂いておると云う事は、例えばなら大場さんに対する事なんかでも、是は絶対なものなんですよ。私の、私が上げて来たこっちゃなかっです。今日私が申しております、ここのご造営の事に付いてもです、もう此処の場合はです、ね。
私が思い立ったのではない。神様が思い立ちなさったのであって、もうすでにです、神様の世界ではコンビが済んでおると云う事なんです。ね。その影を今朝方から見せて頂いてですね、是だけの事を頂き、頂き止めると云う事は大変な事だなぁと。本気で死んだ気にならにゃいけんなと。本気で手厚い信心させてもらわにゃいけんなと。いよいよ神様を信ずる心、真心そして、神心を強うして行く事の為の、信心修行が求められておるのだなと、私自身思わせて頂いた。
神様が、本当にもう下さろうとしておる、もう神様の世界が出来ておる、それをこの世に写させてもらうと云う事がです、それを頂きとめると云う事は、大変難しい事でしょうけれども、せめてその何分のうちかでも、それを頂かせてもらえるだけの信心を頂きたいもんだなと、思わせて頂く。それには、神を商法にする様な信心ではです、頂けるこつ、だんじゃないと。私自身のね死んどいて、ね、私自身が自分というものを空しゅうして、そこから生まれてくる、はぁ死んだ気になるとこう云う事も出来る。
自分が一生懸命になったらこう云う事も出来るという、体験をです、なら皆さんに聞いて頂くものになかったらばです、ね、自分がいい加減なことして、はぁ一生懸命ならんな、というただけではです、それこそ「死んだ事の無い人が、死んだ事が分かるかな」と云う事になるのじゃないかとこう思う。これも昨日上野先生が此処へ丁度午後の奉仕の時でした。まぁ2人で丁度お参りが御座いませんでしたから、もうそれこそ2人でまぁ一生懸命お話をさせて頂いたり、お話を聞いたりした事で御座いましたけれども、ね、取り次ぎ者として、どうしても祈念力」が要る。
その祈念力を作くって行く為には、親先生どういう心持ちにならせて頂いたら、どういう信心させて頂いたら良いだろうかと言った様な事なんですね。祈念力だ出来ると云う事は、ね、そのまま神様におお引き寄せが頂けると云う事なんですよね。例えば、なら御造営なら御造営を此処で思い立たれた。ね、しかも二千万が三千万になり、三千万が四千万になり五千万になった。ね。
現在の合楽では、とても気が遠なるような話である。しかもそれを全部銀行から借ってからやろうとしなさるから、利子だけだって大変な事だと、本当に気が遠なる様にある。けれども神様が思い立って御座る、神様がなせて下さるのだという、思いがあるからこそそれを、いわば受けて立たれる訳です。そこでなら合楽の信奉者の一人ひとりの上に、そういう働きがあっていないはずがないのです。
それでなら一人ひとりがそれを受けて立とうという気にならなければです、自分の願いが、例えば今の私に百万年なんて言うたっちゃ、そりゃどげんしてするかちう事になって来ましょうけれども、本気で私が百万円おかげが頂きたいと願わせて頂いたらです、其処から神様が成程お供えをさせて下さるんだなぁと、分る程しの、いわゆる祈念力を作ったらどうでしょうか。
それを聞き届けて下さるだけの祈念力を。で今私、上野先生と話させて頂いた、そのどう手段というかね、まぁ色んな事は、時間が掛かりますから、申しませんけれどもです。お互いがそういう一つ、願いもせん事では駄目です。その気にならない事には。だからその五千万円の中に、どれだけ自分が入り込んでいけれるかと言う事なんですね。せめて千分の一なりとも千分、せめて百分の一なりとも。
せめて五十分の一なりともおかげを頂きたいと、例えば祈りを立てさせて頂いて、その祈りをいよいよ神様に聞き届けて頂けれるだけのです、祈念力をやしのうて行く、ね、言うだけじゃつまらん。本気でその事をお取り次ぎを頂いて、お願いをさせて頂く気構えを作らせて頂かなければならん。そこからです私は今日ねいわゆる本当の先生、本当の信者。いわば信心の手厚いのが真の信者じゃと仰る。真の信者のとしてのです信心の頂き方、現し方と言う物を身に付けて行きたいと思います。
いかに例えば御結界に、ね、ちゃんと座っておってもそれがただ側をはなれんというだけでは、神様の守が出来んならそれはもういうならば商売人が店番しとるのと同じ事。それはなら真の先生とは言えない。又手厚い信心の先生とは言えない是を信者の方からいうとです、ただ参りよります拝みよりますばっかりではです、ね、それは毎日神様の側に寄っては来よるけれどもだけではない神の守が出来なきゃいけん。神様の守というのは、神様が、の手になり足になりさせて頂くというじゃないでしょうか。ね、
あの世にはもう建立が出来ておる、合楽のいうならば今度の西脇殿。それを現世に移そうとしておられる神様は。ね、その御用にです、ね、その神様の働きの手になり足にならせて頂く事をです、真心を持ってそれを信じてです、ね、神心となりて奉仕するというおかげを頂かせてもらう事がです、ね、今日の95節から今日頂いた神をしょうば、しょうば、神を商法にしてはならんと言う事は、ただ神様をおかげを頂く材料だけに使うちゃならんと言う風にも頂けるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。